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写真ふらふら・15・・・・・写真の「技術」・7

なかなか頭が働かず。備忘続き。

技術の「型」。
撮る技術の「型」の背景にある、見る「技術」の型。

「型」がないと、私たちは、見えている物が「何デアルカ」さえわかならいんじゃないか?
「型」は文化。国や地方、お家によって物の見方は変わるわけで。

「型」がない(身についていない)と、そこで生きていくことはかなり厳しい。
しかし「型」ない、ということはありえるのか? 「型」の違いがあるだけではないか?
としたら、「型」の違いに理解を示せないことは、暴力の遠因となるだろう。

・・・・・
固有名と代名詞。
具象と抽象。

個別のことがらから、全体の規則性を見いだすようなことを「演繹」といったかな。
芸樹は演繹だ!

規則に個別を当てはめていくことは、「帰納」。
「型」を当てはめること。

・・・・・































写真ふらふら・14・・・・・写真の「技術」・6

備忘の続き。

「見る技術」

「撮る技術」に関しては、カメラの使い方、フレーミングや露出の決め方、スタイリングの方法、仕事の進め方、現像やフィニッシュワークの方法・・・・などなど、テーマは無限。だから、テキストもさまざま。

しかし、何を撮るか? どう撮るか? は、写真家の「個性」や「センス」に由来するとされるか、あるいは時代のムードの中でなんとなくこんな風が今どき、となっている現状があるだけ。
写真家という個人がリード役を演じ、時代の流れを変えている風に見える、ということもあるし、逆も真なり。

「何を撮るか、どう撮るか?」には、写真を撮る人が感じて(無意識に想定して)いるだろう「他人の視線」がある。
私は誰にどう見られているか? どう見られたいか? どう見られるのが「普通」なのか? あるいはどう見られると「個性的」といわれるのか? が、自分自身のモノの見方に影を落とす。
こうした視線が、カメラで何を撮るか? どう撮るか? に反映される。

だから一つの型、つまり「流行」という型が必要になるのだろう。
流れ、なんだから、乗っている方がラクチンだ。

それはそれとして、対象を見る、ということには、もっと根っこのところで「型」というのが必要。
多くの場合、これは個人の「個性」つまり「育ち」に由来すると考えられるわけで、だから、いわんこっちない、話が元に戻っている。

だからぁ。
そうじゃない方向に話をもっていきたいんですよ。あたしゃ。








写真ふらふら・13・・・・・写真の「技術」・5

引き続き備忘。

1)型で対応できないぎりぎりが、スゴイことになる。・・・・そういうこともあるかもしれないけれど、そんな風にならないことも多いのかも。ちょっと疑問。

2)技術は、「誰がどうやってもできる方法」という背景をもっている。だからこそ、これをよく理解できていない人、あるいはビジネス上の要求によって「私にしかできない方法」という表面的な装いが施される。
これによって、技術は密教化する。同じやり方ですむ問題が、人によってやり方を変える必要がでてくる。
競争とみることもできるし、無駄と見ることもできる。
日本の写真の状況を見る時、現時点においてはこれが過去の遺産的に「無駄」として見えることが多い。

3)撮る技術の枠組みでは捕らえられない「技術」。これが本当のテーマだった。人はセンスといい、美学といい、気持ちといい、人柄という、そんな「精神的な」ものと考えた途端、これもまた密教のようになる。善し悪しを抜きにて、合理的に考えを押し進めるなら、それは「見る技術」として翻訳可能な対象になりはしないか。
撮る技術と同じように、見る技術、も基礎的な部分くらいは、多くの人に共有化されるテキストかできるのではないか、と思う。思うのだが、実現できるかどうか、これが怪しい。
まずもって、やり方がわからない。何が実現できるかもわからない。

まあ、ずいぶん途中をはしょってはいるけれど、本来はこういう向きに向かって行きたかったのだった。
だから「嫌いな写真」から始めたわけで、多分、いつのまにか向きが変わってしまっている。そんな気がする。

困ったなぁ。







写真ふらふら・12・・・・・写真の「技術」・4

なかなか腰が落ち着かないので、備忘みたいなもの。

1)技術を学ぶっていうのは、「型」を身につけること。
「型」を言い換えると、「らしさ」。

若いころは、こういうのが嫌だったけれど、齢50を数えてしまった今日この頃は、やっぱ「型」だよね。とか。
良く言われることだけれども、型を破るには、型が身についていることが前提なのです。

若いころに「型」を身につけることを怠ったら、かくいう私のようになるのですから、若い人にはぜひとも「型」をしっかり身につけいただきたいと思う。

2)「このようなカタチになっております」が口癖になっている人の知性を、私は疑う。

3)「型にはまった表現」は、社会的に公認された表現であって、可もなく不可もない、つまり「透明」になっていることに等しい。しかしそれは、安心感に包まれることでもある。
私たちは、幼少のみぎりより、TPOに応じた「型にはまった表現」を学ぶ。学ばされる。そうでない表現は、いけないこと、とされる。
カメラの前に立つ時の「ピース」も同じでないか? これも「型」ではあろう。

こういう具合に考えると、ポーズのとり方、写真の撮り方、にも「型」はある。
「型」にはまることで、安心する。そうでないと、いきおい不安になる。どうしていいかわからなくなる。

だから、さまざまなTPOに応じた「型」があればとても便利。

それでも多分、どうしようもない刹那に出会うことがあって、その一歩こそはおそらく、人類が月に残した偉大な足跡と同じくらい重要な一歩になるんだろう。
「型」がないと、こういう一歩がだらしくなるんだろう。一歩なんだか半歩なんだか、ずるずるした感じ。

4)でも多分、「型」がみんな嫌だったりするのかも。「型」には「個性」がない、と感じるわけで、だから若い頃の私も嫌だった。
これは多分、不幸なこと。そしておそらく、この不幸にはまってしまっているのは、私だけではない。
だから多分、自分探しなんぞをしなけれは気が済まなくなるじゃなかろうか。

・・とまあ、素直にいくとこうなるわけだけれども、こう書くと漏れ出てしまう「わだかまり」があって、それが何なのか?

もろもろ。続く。







写真ふらふら・11・・・・・写真の「技術」・3

カメラを使ってシャッター押せば写る「写真」の概念を他の表現と比較するなら、例えば「言葉」とか、「音楽」とか、「絵画」などいった大きな括りに相当します。

言葉には、文学やら手紙やら、メールやら、しゃべり言葉やらがあるのと同時に、日本語があり、英語があり、フランス語や中国語があります。

絵画には、洋画、日本画、といった括りがある以外に、水彩、油彩、テンペラ、水墨・・・といった技法によるジャンルの違いがあります。もちろん、描く対象による区別もあります。

音楽もそうですね。

写真は?

と考えた時に、私たちは、こうした区別を意識的にはほとんどしていないのではないか? という疑いがあることに気づきました。
写真は、一般の人々にとっては単純に「写真」と一括りにされ、国による区別もなく、技術による区別も(「合成」とそうでないものがあるくらい)、対象による違いは写っているモノが違うくらいにしか思わません。
こうした大雑把に考え方は、皮肉にも、写真は真実を写す=見えているように写る、という信仰が支えているのでしょう。誰がどう写しても、同じように写る。いい写真が撮れるのは、いいカメラを使っているから、という考え方は、写真に関わる人が想像しているよりも根深いものがあります。いや、写真に関わる人の多くも、こうした考え方に捕らわれているのかな?

話は変わりますが、報道と広告≒ドキュメント≒アート、記録と創造という区別については、なんとなく暗黙の了解がありますが、これは、「言葉」でも「絵画」でも「音楽」でも言えることで、国や技法や対象による区別ではなく、「態度」による分け方なのだな、と、今思いました。


写真が、撮影対象によって区別したり、技術(技法)によって分けることがないわけではありませんが、非常に面白いのは、それぞれのジャンルの人たちが、それぞれに「我こそが写真だ」と言わんばかりの自信でもって、一番の権威の座にましましているように見えることです。
他の国の状況はわかりませんが、ジャンルの異なる写真は、本当の「写真」ではなく、自分たちのジャンルこそが「本当の写真」なのだ、というほとんど信仰のようなものがあって、ともすれば、他のジャンルをさげすむように感じられることも少なくありません。

棲み分けがうまくできていない、のが原因ではなく、棲み分けができているにも関わらず、それぞれのジャンルがそれぞれに閉鎖的であり、かつまた自信がない、ことの裏返しなのでしょう。

お互いの風通しがよければよいのですが、景気がよければよいでマンパワーを囲い込み、悪ければ悪いで情報を外に出さないように腐心する習慣は、なかなか直るものではありません。もちろん、そうでない人々も少なくはないのですが、こういう人はどの仲間にも入らないために、結果として「個」の限界の中に閉じこもるしかない、ような気もします。
なんだかんだ言っても、多くの人が協力しあえる関係の中にいる方が、大きな仕事ができるし、当然ながら分け前もそれなりに発生するのです。

こうした方面から写真の技術を考えると、それは、被写体や撮影目的の要請によって、純粋に合理的に生成されてきたというよりも、主に、社会的・政治的な要請の方が強いと見える部分も多いように感じられます。

で、突然ですが、今日は時間切れ。














写真ふらふら・10・・・・・写真の「技術」・2

技術の続き。

被写体を選ぶ。
カメラ位置を選ぶ。
写る範囲を確認する。
シャッターチャンスを選ぶ。
光を見る。

これらは、カメラによってほとんど自動化できないテーマです。
自動化が図られたのは以下。

ピントを合わせる。
シャッタースピードを選ぶ。
絞り値を選ぶ。

でもこれらも、画面のどこにピントを合わせるか? シャッタースピードや絞り値は何を基準にするか? に関しては、いわば「平均的」によろしい按配にすることを目的に、自動化がなされています。これは前回も書いたところ。

それが果たして、カメラを操作している人の本当の要求に応えているかは、結構微妙なところでしょう。
ここには、技術的な課題としていつか解決できるテーマと、技術的には対応できない人間の勝手な(人間的な)思いもあるはずです。
ただ、カメラの歴史を振り返ると、それができる前は不可能であった自動化がなされていることは確かです。技術者ってすごい。
なので、これから先、何が自動化されるのか? どんなブレークスルーがあるのか? わかりはしません。

考えようによっては、いわゆるカメラ(一眼やコンパクト)から、iphoneアプリなどは、私のような古い世代にはわからない「新しいカメラ」「新しい写真」になっているのでしょう。
これらが、これから先、どのように発展し、何をもたらすか? など、私の考えの及ばないところです。
まったく。残念ながら。
もちろん、これらを「使って楽しむ」ことは私にもできるでしょう。しかし問題はそういうところにあるのではなくて、iphonアプリを代表とする新しいカメラが、多くの人が考える「写真の定義」をどのように変えてしまうか? ということろにあるのです。
まったく。

話がどんどんズレていく。
無理やり軌道修正。

カメラを操作する技術自体は、それほど難しいテーマではありません。
机の上で、使用説明書を見ながら操作を確認し、慣れる、ことくらいなら誰にでもできるはずです。
しかし、やる気になりませんね。使用説明書を読む気にもならないし。

現実は、使用説明書を読まなくても、ある程度の操作ができようにカメラは作られています。だから、いきなりカメラをもって、いきなり本番撮影でも、たいていの場合は、適当に撮影できます。運がよければ、ビギナーズラックのように、名作が撮影できることも少なくありません。無欲の勝利。

でも、なんかうまくない、という反省から、人は写真の、カメラの技術を学ぼうとするのですが、ここに一つの落とし穴がある、ように見えます。
何か? というと、「お手本」あるいは「先生」の呪縛です。
純粋に技術だけを学ぶのではなく、実際に撮影することによって学ぶためには、「何を、どのように撮ればよいか」という、カメラの技術以外の「写真の価値観」を同時に吸収することが必要です。

お手本や先生の価値観が、自分の期待と同じか、似ている場合。ここでは「お手本」や「先生」はあらかじめ絶対的に正しい存在となります。

お手本や先生が、本当にいいとのかどうかわからない場合は、とりあえず、それはよいものと仮定する必要があります。そうしなければ、そこから先の学習は実を結ばないでしょう。

もし仮にお手本や先生の価値観が、自分の期待と大きくズレていることがわかると、写真は面白くなくなります。
写真をやめるか、振り出しに戻って別のお手本や先生に出会うところから始め直さなければなりません。

ズレていても仕方ない、とりあえずそこから始めるしかない、と割り切るのは、精神的にはかなり厳しいものがありますが、やっている内にどのような価値観にもそれなりの意義は見いだせるわけで、次第に「慣れ」ていくことになるでしょう。いつのまにか、前の自分とは違う、どちらかというとお手本や先生の価値観に近い目標を共有することになります。

いずれにしたところで、技術を学ぶ道程は、その歩みを進めるごとに、「お手本」や「先生」のもつより深い価値観に染まることを意味しています。

写真が、伝承的なお家芸みたいになるのは、こういう仕掛けがあるからだと思います。

いい悪いというのではなく、私自身の体験でいうと、アマチュアの頃は「写真屋のオヤジ」に洗脳され、上京してからは「写真学校」に洗脳され、雑誌編集部では「雑誌編集者」の写真の使い方に洗脳され、ギャラリー勤めをすれば「ギャラリスト」の視線に洗脳され、コマーシャルスタジオでは「広告写真家」的な見方に洗脳され、写真館をやればやったで「写真館に来店するお客さん」に影響を受け続けているわけです。

つまり、写真に対してどのような立場にいようとするか? で、要求される「写真の見方」が異なり、結果として「写真の技術」のあり方が大きく変わる、のです。
前回から書いているよう、写す範囲を決めたり、レンズを選んだり・・・・という純粋に技術的なテーマを学んだ後に、自由に、何を撮るか? どう撮るか? の世界へ飛び出すことができるのは、実は夢物語にすぎないのです。

技術を身につけるための学習を真面目にすればするほど、それと同時に「物の見方」をどんどん狭める必要があり、そのことによってのみ高度な技術が身につきます。
「専門家」や「プロ」が、一般人とは異なる物の見方をするのは、つまりこういうことなのでしょう。

これを皮肉な面から眺めてみると、彼らは、自分が身につけた技術の中で物を見る体質になっています。なので、自分の技術の限界を超える「物の見方」ができないことが少なくないのです。
シロートの方が自由な発想ができることがある(いつもそうというわけではない)のは、これが原因。

わかりやすいところでいうと、プロは「お金」を稼ぐのが大前提ですから、予算外のことをしたくない→してはいけない→儲からない写真は自分は撮りたくない→他の人も撮りたくないだろう→誰にもそんな写真は撮れない、という安直な結論に至ることが少なくありません。
写真のことをあまり知らないクライアントは、こうした考え方でも従わざるを得ないのが普通です。

こうしたワナに陥らないようにするには、「人を見る」しかありませんが、話が違います。

別のワナもありますね。

自分が知っている技術を他の人に知られると、自分の稼ぎが減る→技術は秘伝・・・とって、嘘がばれないシロートのクライアントにだけには自慢するわけで、全て自分が考えたオリジナル、と自分で信じ込むことになります。こうした考え方は、ビジネスを行う上で必要な「絶対的な自信」に結びつきます。
大切なことなのですよ。これは。
しかし、嘘は嘘であることに違いはないのですが。

ここまで極端でないにしても、同窓や門下といった仲間うちでのみ共有される技術というのも少なくないですね。ちょっと外にでたら非常識と思える技術でも、その内部では常識であり、かつまた合理的だったりする技術があります。
フィルム撮影の常識と、デジタルの常識が異なることがあるのに似ています。人物と静物の撮影で異なる技術があり、報道と広告で異なることもあり、スタジオと屋外で異なることがあり・・・。要は、「環境」が技術を制約しているわけです。
しかし多くの場合人は、自分がおかれている環境は、全ての人の環境と同じか、似ているはず、と想定します。

郷に入れば郷に従え、か?

そんな話をしたいわけではなった。どんどん迷路に入っています。
読むに耐えないでしょうね。すみません。
でも続きます。




















写真ふらふら・9・・・・・写真の「技術」・1

写真の「技術」というと、たいていの人はカメラの操作技術を思い浮かべるでしょう。
いろいろ考え方はあるにしても、写真撮影に十分慣れた人であれば、カメラの技術はさほど重要ではない側面があることを知っているはずです。もちろん、どうでもいいということではなくて、それよりも重要な「技術」がある、という意味です。

カメラの技術とは、レンズ選び、ズーム操作、ピント合わせ、露出の設定、色の設定、が大きな要素です。
この中で、ピント、露出、色に関しては、どんどん自動化されてきたことは周知の事実です。どのように自動化されたかというと、多くの人が平均的に「いいね」と思われる写りになるように、です。特定のマニアが喜ぶように、ではありません。
自動化されていないのは、レンズ選び(ズーム)、シャッター操作、そして光、の三つだけです。
ということは、これら二つは、写真を撮る主体性に大きく関わるテーマだと考えればよいでしょう。

たとえば、ズームを含み、カメラをどの位置で構えるか? というカメラアングル(いわゆる構図選び)の技術的側面は、カメラの技術とは少し違い、身体的な技術、と考えたほうがよいでしょう。少し拡大解釈をすると、カメラをどこに持ち込めるか? は、政治的(権威的)な要素が色濃く出ます。スポーツや報道の現場では、撮影したい場所に誰でも自由に立ち入れるわけではなく、政治的、あるいは経済的な力関係に従うか、あるいは抜け道を探すか? しかありません。いいカメラを持っているから、ということが条件になるかもしれませんが、カメラの操作が上手いから、立ち入りが許可されるわけではありません。
もっと大切なのは、何を、どこからどの角度で、どれだけの範囲を撮るか? いわば「構図」のとり方が、写真に個性を出すもっとも重要な要素なのです。

何を・・・・・・・・被写体選び
どこから・・・・・・視点のとり方
どれだけの範囲で・・レンズ(ズーム)の選び方

いろいろ深い問題はありますが、とりあえず先に進みます。

次はシャッター操作です。
これは、どの瞬間を写すか? なじみの言葉でいうなら「決定的瞬間」を捕らえる、ことです。最近は、被写体の笑顔を検出して自動的にシャッターボタンを押す機能が搭載されたカメラも登場しています。これを便利と考えるか、余計なお節介と考えるか?
写真撮影に慣れていない人を想定すると、カメラを持つだけで自意識過剰になるか、何も考えなくなって、どのタイミングで撮るのがよいかわからなくなることも多いのです。こういう人にとっては、とても便利、と感じられるかもしれません。ただ、どの瞬間の笑顔がいい笑顔か? は人によって、意外なほど違いはあるもので、これが気持ち的に引っかかるかもしれません。どうでしょうね。

いつ・・・・・・・・シャッターチャンスの選び方

こう考えるととても単純に見えてきますね。単純だからこそ「難しい」といっていいのですが、この難しさは、技術的な困難ではなく、価値観の相違の至るところ、すなわち視覚コミュニケーションの不可能性にこそ原因があります。難しいなぁ、言い方が。


いい写真を撮るためにはいいカメラが必要というのは、カメラ大国である日本だからこそ根強いイデオロギーの一種と考えた方がよいのではないですかね。

最後にライティング。被写体に光をどうあてるか?
実務的に光をどう当てるか? ということ以上に、何を見せて何を隠すか? といった文化的・意識的・政治的(なんていえばいいのかな?)な側面の方が重要です。

光源の色や種類(スポットライトやフラットなライトなど)を選び、光を拡散(ディフューズ)したり反射(レフ)させたりする技術も必要ですが、ではいったいどこにどう光を当てるか? を決めることの方が重要なのです。そのことによって、まさに被写体のある特徴に「光を当てる」ことになるわけですから。
センスというよりも、価値観の違い。後は、それを実現する根気が問われるのがライティングです。
自分で光をコントロールできない自然の中(屋外)での撮影では、いい光を待つ、しかない。つまり、価値観と根気が重要、なのは、室内撮影と同じことだと思います。

ライティングがなぜ多くの人にとって魔法のように思われるか? は単純です。
多くの人は、光など見ないで、被写体そのものを見ているから。わかり易い例えでいうとフラッシュの光は、一瞬だけ強く光って、主にその光だけで写ることが、普通の人にはなかなかわかりません。なので、光が変に反射した写りを見た時に、現実には見えていなかった光であるため、つい心霊現象にしたがったりするわけです。
「わからない現象」は不気味ですから、フラッシュが一瞬の光であることを実感として理解できない以上、心霊現象にした方が納得できる。
これは、ライティングに美的な魔法を見る人々の思いも同じです。こちらは、現実の見栄えとは違う「美しさ」というわからなさを、写真家のセンスやライティング技術に求めるだけの話です。


私たちは、目で光を感じて、対象を見ているのですが、光そのものを見ている意識はありません。私たちは、対象を直接見ている、と直感しています。そうでなければ、日常生活が困難になります。
理科や物理の知識は、対象を見るために、光が媒介となっていることを教えてくれますが、理科や物理がわからない人は、そもそもここが理解できません。理科や物理の成績がよくても、実務に結びついた知識とならないと、実感にはならない難しさもあります。
映像関係でいう照明屋さんは、これらを熟知した人です。カメラマンの多くも、これに熟知している人が多いはずですが、案外、理科や物理がわかってない人もいます。それほどに、難しい。
もちろん、理科や物理な知識と、美的な感覚は、全く別物である点が、さらに話をややこしくします。


写っている部分の何を見せ、何を隠すか?・・・・光(ライティング)


スタジオで撮る場合は、画面に写す範囲を決めた後の話になることが多く、屋外で撮る時には光の状態は先に与えられた条件になります。

これら以外に、デジタル写真なら「画像処理」、フィルムなら「暗室作業」があります。こちらは、一般の人にとっては字義どおりブラックボックスの中の出来事です。
こうした技術でできることは多彩ですが、これらを駆使した写真は、いわゆる「写真」のカテゴリーから遠ざかったものとして受け取られやすい傾向があります。
非常に興味深いことに、ブラックボックスで行われていることが「単純に理解できた気になる」限りにおいて、写真は常に真を写すツールとして捕らえられるのですが。

いずれにせよこのあたりは、「写真」をどう捕らえるか? にかかる問題ですが、それ以前に写真を撮影した「後」の話であることは確かですので、ちょっと後回しにしてよいでしょう。

なんだか、写真の勉強みたいになってしまいました。本題に入るのはまだまた先になりそう。困った。








写真ふらふら・9・・・・・「女子カメラ」みたいな

女子カメラに限らず、最近の若い人たちは「趣味」を中心に集うことが多いそうですね。
考えようによらずとも、こんなの昔っからそうだったような気がします。しかしここに企業が目をつけて趣味をする人々が「消費者」としてのターゲットになってしまった、のでしょう。

昔の趣味は、知恵を出し合ってお金をできるだけ出さなかったような気がします。あくまで気分ですが。
最近の趣味は、その始まりから終わりまで、「お客様」として楽しめるようになっているような気がします。あくまで気分ですが。

それとよくいわれるのは、「競争しない」ということですね。
分かりやすいところでいえば、昔からあるカメラ雑誌は「写真コンテスト」が読者の写真撮影の上達と雑誌購読のモチベーションを高める偉大な装置になっています。コンテストを通して、写真家先生とアマチュアの階層ができ、全国津々浦々の写真の会を束ね、それらの組織の内外の序列を決めているわけです。

ところが最近の女子向けのカメラ雑誌には、コンテストがありません。何をおいても、この差は大きい、と思います。ただ、この中の感覚は古いコンテスト世代である私には、なかなか実感できません。私などは、どこかで、他人と自分の「比較」や「競争」をしないままでは、自分の「立ち位置」を決められないような性質があります。

しゃれた言葉を使えば「辺境の日本人」的なのです。私は。そして、古い世代は。
比較して、若い人の感覚をよくいえば、「成熟」と呼んでもよいかもしれません。

ただ、その反面、それで大丈夫なの? とどこか不満げな、あくまでも古い感覚の私が抜けないわけです。
わからない、というのはこういうこと。

しかし逆に、彼らに彼らのことがわかっているか? というと果たしてどうなのでしょう。そこが問題。
私は私のことをわかっているか? って?
わかりはしませんよ。自分のことなんて。

なんだか、世代論になっちまった。そうじゃないんですけれどね。


世代ついでに。
「女子カメラ」にしろ、若い人のカメラ好き、という範疇に私が都合よく入れているのは、だいたい20代中頃から30代中頃、といっていいでしょう。
いわゆる就職氷河期以降の世代です。
私自身はバブル期前夜の就職組で、なおかつ「学校枠」みたいなので就職した口ですので、就職困難という自体がそもそもわかっていません。就職できないなら、自分で仕事始めれば、なーんて平気な口で言ってしまいそうな、厭味なオヤジなのです。最近は、写真館の仕事を通じて、その大変さのほんの一端をかいま見て、少しはわかったつもりにはなっていますが。
だからこそ、こういうのは人間のでき方に大きな影を落とすことは確かでしょう。

ところで就職氷河期世代でも、カメラを趣味として楽しめることを考えると、それなりの「余裕」がある、と考えてよいでしょう。カメラやパソコンを買い、時々は旅行やセミナーなどに出かけては、写真を撮って楽しむ時間もある、わけですから。

実を言うとこのあたりは、私が会社を辞めて写真の道にすすむ(「道」なんて、冷静に考えると変ないい方)ことにした23歳の頃の記憶に重なります。

他人から見ると違うのですが、本人にとっては「若さ」と「余裕」は、あまり幸福な組み合わせではありません。ここには、「不安」と「迷い」が鎌首をもたげてくるスキマがあって、なおかつそれを適度に抑えるだけの「経験」や「知恵」がありません。
私の世代にはまだ、青春などというまさに青臭い言葉が残っていて、それで救われる部分もあったのですが、青春という言葉に手垢がつき過ぎて死語みたいになった今は、その救いを自分で見つけないといけないような圧力として強く感じられるのではないですかね。

こうした意味では、前にも紹介しましたが、若い人たちの「写真趣味」には、どこか「自分探し」的な背景があるのです。これは世代を超えて、誰もが若い時期に通過しておいたほうがよい「体験」だとは思います。通過しないで過ごしてしまうと、問題が根深くなってしまって、後が大変、と思いますから。なので若い人たちの趣味は決して、お気軽に、競争せずに楽しんでいれば事足りる、のではない何かだとは思います。

定年過ぎてから楽しむ「写真趣味」にも、同じことは言えるのです。ただ、先にも言ったよう、この世代は「競争」すれば、なんとなく安心できます。案外、精神世界が単純にできているのかもしれません。いや、そうではなくて、人生経験が「自分探し」を「ほどほど」でよしとできる知恵があるわけです。
若い人には、これは無い。

無いことが良かったとされる時代は、遠い昭和のころのおとぎ話なのかもしれません。









終わっていません・・。今晩再開予定。

写真ふらふらは、そうとう中途半端なまま、「わかんねぇ」で終わったかのように見えますが、終わっていません。
今晩、再開予定。
できるかな?







写真ふらふら・8・・・・・「女子カメラ」の周辺

 最近のカメラメーカーは、カメラ女子をターゲットにしたようなカメラを発売したり、Webサイトや書籍・ムック、雑誌広告などにずいぶん力を入れていますね。売れる物を作るのがメーカーの基本姿勢ですから、これは当然のこと。
 それなりに売れるのでしょうね。多分。前回も述べたよう、私の身の回りには、カメラ女子は不在でありまして、実感はないのですが。

 今年の年頭に、プロ・アマチュアの写真好きが集う小規模な新年会に出かけたのですが、ここに参加していた女性の一人は、「女子カメラ」をちょっと下に見ていました。年齢といい雰囲気といい、端から見れば、まさに女子カメラにドンピシャなのですが、本人としては、「女子カメラ」とは一線を画したい気持ちが強いのでしょう。
 もちろん、彼女の作品を見れば、それは「女子カメラ」的ではないような気も、少しはしたのですが・・。

 ところで、「女子カメラ」風の写真とは何でしょう。
 実をいうと、これが結構怪しいのですね。

 基本路線としては、色彩が薄い感じ。背景や前傾を大きくボカしたイメージ。画面の端に主題となる被写体が写っている構図。画面の中の要素は少ない(ごちゃごちゃしていない)。なんとなく「弱い」「細い」感じ。などなど、といった印象がありますが、これらは私の主観的な受け入れ方にすぎないかもしれません。
 ただ、どの機種かは忘れましたが、「女子カメラ風」のイメージに仕上がるモードが搭載されたカメラもあるようで、この機能は、露出オーバー気味、彩度を落とす、背景をボカす、などの設定だと記憶していますから、まあ、あたらずしも遠からずだとは思うのです。

 「女子カメラ」は何を撮るか? というと、基本的に身内に(家族と友達)。身辺。ですね。
 流行りの用語でいえば「内向き」。「弱い」「細い」感じは、こういった対象しか撮らないのと、共通したニュアンスでもあるでしょう。

 雑誌の「女子カメラ」でよく使われるコピーは「ゆるい」「かわいい」「おしゃれ」ですね。「写真」でなく「しゃしん」だったり。これが「弱く」なくて何だというのだ! 

 以上を読むと、なんとなく私は「女子カメラ」に対して否定的な感覚をもっているように受け入れられるかもしれませんが、ぜんぜんそんなことはなくて、「弱い」「細い」も「内向き」も、「薄い」イメージも、私にはできないテイストであり、とても好みだったりするのです。まさに、「今の感覚」がそのまま写真に表現されている、と素直に受け入れています。

 なので、少し褒める路線の言葉を重ねるなら、「自分(たち)の『生活』への愛情」の表現として写真がある、といえば分かりやすいでしょうか? どこかのコピーにあったと思いますが、「カメラは、生活スタイルの一部」なのですね。

 このあたりのいい方には、かつてとは決定的に異なる意識の差があるように思います。

 かつては、写真のために生活を捨てる覚悟があることが憧れの「スタイル」でした。なので、いわば貧乏絵描きみたいなファッション(本当に小汚い)が指向されたりもしたのです。

 これが今は、写真を使って生活を豊かにすることが憧れの「スタイル」になりました。勢い、カメラはファッションアクセサリーの一つとして見直され、写真を撮るまでもなく、マイナーなクラシックカメラを肩からぶら下げているのがかっこいい。もちろん、トータルコーディネートがよいので、それでサマになっているのですよ。本当に。

 変われば変わるもんだ。

 とまあ、ここまで話がズレて広がると、ようするにカメラをもつ姿が「おしゃれ」で「かっこいい」であれば、写真のイメージは限定する必要はなくなります。あらゆるテイストや作風を含めても、問題はありません。カメラメーカーのWebページを斜めに見ていると、既にその兆しを多分に見ることができます。若い女性(若者に人気のある年配女性でもよし)であれば、なんでも「女子カメラ」扱いにしていいものではないだろうに。で、多分、近い内に、森山大道がかっこいい、と感じるカメラ女子が登場しても、何ら不思議もありません。既にいるかな?

 しかしおそらく、これを許容した途端、「女子カメラ」というカテゴリーは内部崩壊しますね。そうして残されるのは、生活スタイルとしての写真&カメラという、広範囲で凡庸な、ちょっと古くさくなったおしゃれ文化、のはずです。もっとも、どのようなおしゃれにも、それが生まれ、多くの人に受け入れられ、広がっていく過程で、おしゃれではなくなっていく時限装置が最初から組み込まれているのです。

 ただ、時代の徒花として忘れ去られるよりは、土着の精神風土に溶け込めんでしまい、それがかつてのおしゃれであったことなど、年配の人しか覚えていないようになることの方が幸せだろうと、私は思うのです。

 ともあれ、今回のまくらがやっと終わり、ここからが本題ですが、こっちの方が短くなるかも・・・。

 女子カメラをとりまく環境には、冒頭に書いた「カメラ女子」向けのカメラの他にもいろいろあります。これらを語らずして、女子カメラを語るわけにはいきません。

1)カメラ女子向けのカメラ
 現在、カメラ人口の中に占める女子の割合が増えた最も大きな要因は、カメラがデジタル化して簡単になったことがあるはずです。
 昔の金属製・メカニカルなカメラは男子の趣向でしたが、今のカメラは基本的に家電製品。家電メーカーも参入しいるとからも、それは明らかです。このあたりから、男子の興味が薄れ始めたこともあるでしょう。かつては家族の中でカメラを持つのは父親だったのが、今ではママがカメラ係になっているような話はずいぶん耳にします。

2)女子向けカメラが嫌な女子向けのカメラ 
 こういう気分、ありますよね。あなたにピッタリなカメラを作りました、大量生産品で。なんてのは嫌。
 他の人とは違うカメラが欲しい。
 一つは、ストラップやケース、バッグなどのアクセサリーで差をつける方法。一昔前に比べると、本当にセンスのいい品物が増えました。
 そしてもう少し「本格的」なものが欲しければ、中古のフィルムカメラがあり、トイカメラがあります。
 ニッチな需要に応えるさまざまな商品ラインナップが勢ぞろい!

3)トイカメラ 
 これと女子カメラを同一視するのは、多分間違い。しかし、重なっている部分は濃厚です。

 トイカメラはもともと、ロモやホルガといった、ロシアや中国製の安価なおもちゃカメラを「おしゃれ」な文化として焼き直したものです。何でもきれいに写すために、さまざまな機能を加え、操作がややこしくなったカメラとは違い、フィルムを詰め、巻き上げてシャッターを押すだけ、の簡単操作。それでいて、他とは違う面白みのある独特なイメージで撮れるのが、トイカメラの分かりやすさ&不思議さです。
 普通のカメラメーカーの考え方でいうなら、その写りは「失敗」にすぎないのです。しかし、おしなべて同じようにきれいに写るカメラよりも、個性がある、と考えることもできるわけで、要するに価値観を反転させた面白さが、トイカメラの真骨頂。

 ロモは、もともと世界中に根強いファンがいて、インターネットや書籍を介したネットワークがもともとあったようです。
 これを日本に持ち込み、ビジネスとして展開した一人が、パワーショベルの大森さん。上のような理屈で、ヨドバシとかのカメラ屋では売ってくれないのです。価値観が違いますから。これを、洋書などを扱っている文化的な書店や美術館のショップで売る。そしてあたらしい「価値」を作っていったのが、大森さんの見事なアイデアだったと言えるでしょう。

 だってねぇ、ぶっちゃけいわせてもらえれば、ロシア・中国のおもちゃカメラですよ。技術的には三流国のおもちゃが、技術的に世界のトップである日本で、まぎれもない日本製のカメラよりも高価な値段で売れるのです。買っている人がどうにかしている、と価値観の古い私は考えざるを得ません。

 大森さん。トイカメラファンの女性たちに対して、次のような興味深いこともおっしゃっていました。
「彼女たちは、プロを目指しているわけではありません。自分から積極的に写真を人に見せることもない。だいたい自分の生活圏の半径3メートルで撮っているような、自分探し系のニュアンスか強いように思います。」
 そして、
「トイカメラというジャンルが世代交代しながら続いているのは、地方から上京し一人で生活したり、自立し始める二十歳頃の、ある種、通過儀礼のような側面もあるかもしれないですね。」
(コマーシャルフォト2008年2月号に掲載した私の連載「銀塩魂」から抜粋。)

4)ポパイカメラ
 自由が丘にある、その筋では有名なカメラ店。カメラ女子御用達のショップで、従来のカメラ店のイメージを刷新し、おしゃれな雑貨とカメラを中心に販売。現像・プリントも一人一人の要望に合わせたアレンジをしているのが特徴です。おしゃれなカメラ雑誌と企画を提携するなど、ビジネスも順調に展開しています。横浜にも支店を出しましたね。売れているのです。

5)モノグラム 
 学芸大学にある、おしゃれなカメラ・PPE店。SNSを使って、「カメラピープル(通称カメピ)」という名の、フィルムカメラファンのネットワークを作り、ビジネス展開しています。
 ポパイカメラともつながりがあり、このビジネスモデルは、地方にも展開している模様。もちろん、世界で唯一フィルムを作り続けると宣言している富士フイルムとの協力関係もあるでしょう。こうしたショップが成功しないことには、フィルムはほんとうにヤバイことになります。頑張ってもらいたいものです。

 などなど・・・。
 女子カメラ(編集長は女性)という雑誌だけではなく、さまざまな方面から新しいビジネスを模索している若い人々(30代の男性がメイン。女性はあまりいないかな?)が、迷えるカメラ女子を強力にサポートしているわけです。そしてもちろん、彼らの背景に控えているのは、世界に冠たる富士フイルムであり、オリンパス、キヤノン、ニコン、ペンタックスといったカメラメーカーです。

 女子カメラが一時のブームで終わってよい、と考えている人は、その関係者の中には一人もいないはずです。
 何度も書いているよう、私の身辺にはカメラ女子はいません。なので、今の今になっても、女子カメラという現象に、実感が沸かないのが正直なところだったりします。
 こういう側面からしても、やはり「女子カメラ」は私にはわからない、のです。


 












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