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行き詰まりの考察・再び

 フォトコニカで連載していた記事の一つ「どうなってまんねん?」の再録「フィルムを通して写真を学ぶ」の完結が近くなっています。
 他のシリーズもそれぞれ残り4回なのですが、一気に仕上げてしまうおうという魂胆です。他の記事もどんどん片づけます。
 早く新しいことを始めたい! のですよ。

 それはそうと、記事をまとめながら、フィルムカメラの時代のフィルムやカメラメーカーの会員誌(ないし会員制クラブ)を考えた時、大きな意味で、こういうのが全体として一つのビジネスモデルになっていたのだなー、と思い至りました。
 このくらいのこと、当時からわかっていないといけないんでしょうけれどね。上層部の人は皆、知っていたのでしょう。だからこそ、どこのメーカーも同じようなことをやっていた。

 僕だけが理解不足なのです。

 写真のコンテストも、会員誌も、ギャラリーも、「写真文化の向上」といえば聞こえはいいのですが、メーカーのイメージを高めつつ、フィルム消費の向上を図る装置として機能していたのですね。こういうのに絡んでいた写真家も(もちろん僕を含め)、その一翼を知らず知らず担っていたわけなのです。
 サイトには掲載できないのですが、当時掲載された写真を今、当時の感覚からは遠く離れて見ていると、それが痛いほどわかる。
 しかしこれは当時の写真の階層化にとっては幸福なことであったとも思います。

 今はどうなのか? そして、これからどうなるのか? 当時のやり方はおそらく、ほとんど何の参考にもならないように思うのです。(もちろんどのように参照するか、という問題でもあるのですが・・。)








見たいこと、見せたいこと

 多分、「技術」にならないところが面白いんでしょうね。
 
 撮影技術、撮り方、見せ方・・・・そういうのがあらゆるシーンで常套化していて(撮る側、撮られる側、見る側、見せる側・・全ての立場が共犯関係的に「それでよし」とする構造がある)、だからそうでないように見えるのが面白い(そういうのもは、構造の外であるから、本来ありえない。だから面白い)。

 見たことのない被写体、見たことのない撮り方、見たことのない見せ方・・・。

 歳のせいもある。いろいろ見てきたから。フォトジャポン編集部、ツァイトフォトサロンにMIN、コマーシャルスタジオ、そして写真館、ネットショップ・・・。いろんな方面から見る経験もできてしまった。
 悪い意味でいうと、知ったかぶりになっているんでしょう。だからといって、見なければよかったということにはならない。それぞれが得難い経験であったし。
 今の頭で若い頃にもどりてぇな。とは、多分、誰もが想像することでしょうが、それは無理。

 そういえば昔、荒木さんがどこかで書いてたけれど「面白がる」の「がる」というのがいいですね。

 行き詰まりなんて考えるもそろそろ止めにして、面白いことを探しに出かけようと思います。
 何を撮るか、どう撮るか、どう見せるか・・単純なことではあるのです。
 

 







何が起こっている?

 いくつか。

1)ネットショップ/一般の人でも少し勉強するだけで、プロ以上の写真が簡単に撮れるようになった。・・・考え方の古いプロは使えないねぇ。と正直思うところ。

2)iPhone/買わなきゃ。アプリでいろいろ楽しめるそう。
パノラマも再生できるらしい。Kindleなんてのも、これからどうなるんでょうねぇ。

3)パノラマもそうだけど、カイトフォトなど、高度に趣味的なジャンルは、国内のしがらみを通り越し、世界と直接つながっている感。英語力は欲しいですねぇ。翻訳ツールも便利だけど。

4)編集でできること。いわゆる合成やレタッチだけではない。パノラマ、3D(遠山式などもデジタルならでは)、HDR・・・このあたりは、守旧派?にはなかなか理解しがたい世界なのかもしれない。

5)撮る/見る/共有する・・とりわけ「共有」の変化。

6)わりあい簡単に撮れるようになったこと、ネットでの写真の閲覧など・・「欲しい!」「見たい!」イメージが変わる?・・冷静に考えなおさないと。

7)日常的な「撮られる体験」から、プロに頼んででも写真に撮られたい人たちが増えないかなぁ。


 







「行き詰まり」を別の角度から見ると?

 そんなこんなで、とりあえず一巡。

「行き詰まり」って、そう考えている人の頭の中にだけあるもののようで、人が生きていれば「行き詰まり」なんてどうにかなるところがあるのかもしれません。
 要は、どこに居るか? どう動くか? 例えば、今日、フィルム大判カメラで仕事をしようったって無理でしょう。やり方はあるだろうけれど、恐ろしく狭い範囲でしかできないわけですよ。
 立ち位置を変えれば、違った風景も見えてくるのですから、ここはいっそのこと、見渡しのよい視点を見いだす方向に動き出してみないとね。と思いました。

 例えば「デジタル化」というのもそうなのですが、実は「デジタル化」そのものがテーマということではなくて、「いわゆるデジタル化」によって、人と人とのつながり方が変わったことの方がはるかに大きい問題なんだろうな、と考えを改めてみます。

 知っている人には何を今更、なのでしょうが、「デジタル技術の進化」になかなかついていけない自分でも、このように考えるとまあ、技術などそれほど深く知らなくてもよいな、と割り切れるわけです。

 つまり見方を変えて、誰と誰がどのようにつながれるようになって、そこで写真はどのように役目を持つか? と考えれば、新しい写真のあり方も見えてくるのではないか。
 
 写真自体も実はそのような傾向があるわけで、ライティングや露出の「技術」が大切なわけではないのです。「技術」はあくまでも道具であり、道具がいろいろ変わったり高度化するのにアクセクすることはないのです。

 人と人のつながりが変わりつつある時代にあって、昔ながらの写真の考え方をごり押しするから無理がある。無理はかっこいいし、芸術に近いし、それはそれでいいのですが、そうでないあり方に慣れていく、ことも大切でしょう。

 ちょっとずつ、いろいろ新しいことを始めながら、次なる道を探っていこうと、ちょっと仕切り直します。







「普通の写真」は行き詰まるか? 12

 「普通の写真」というへんなくくり方をしたのですが、例えば花の写真とか工場萌えとかなら、趣味〜アートに入りますし、オークション用はビジネスの範疇です。
 なので、実際には「自分(自分たち)が写る写真」という方が正確でした。具体的には、写真館的な写真および、プリクラ、ケータイ、記念写真・・・ですね。写真館はビジネス、という一点はまたややこしいところです。

 で、ここに来てざっと見直してみると・・・。

 「自分(自分たち)」が写った写真の評価主体は自分たちです。自家撞着的であると共に、社会の枠組みが深く影を落としています。
 「ビジネス」は、写真に写っている本体(主に商品やサービス)を知らない人たちが評価対象になります。写真の中のイメージないし商品やサービスを買うかどうか?
 「趣味・アート」の評価主体も「自分」なのですが、ここでは社会の枠組みから少しずれた別の社会(それぞれの趣味やアートの社会)が背景にある、と考えてよいでしょう。

 このような見方をすると、また少し別の性質が見えてくるように思います。
 単純には、社会のあり方が変われば、それぞれのイメージも意味も変わる、ということ。
 被写体のイメージと意味の関連を、どうズラすか。どう引き剥がすか。他の何とくっつけるか? それをどのように行うか? が主な問題であること。
 







「普通の写真」は行き詰まるか? 11

 写真嫌い。
 気に入るイメージに写ることで、写真嫌いが一人でも少なくならないか。

 二度と見たくない成人式の写真。
 成人式の日や二十歳だけに撮影するなんて、おかしくないか? 40歳も過ぎれば、20歳も25歳も似たりよったりだと思うが・・・。早く社会人になった人なら、20歳より前に成人でもよいではないか。

 なぜ貸衣装ばかり?
 60〜70年代に比べれば、皆、ずいぶんいい物を着ているし、お洒落に気をつかえるようになったのでは? わざわざ、着こなせない服でぎこちなく写るくらいなら、気の利いた普段着の方がよくないか? 時代のファッションも残るし・・。

 人それぞれの成長に合わせられないか?
 なぜ年齢で区切る? これは年配の人にも言えること。その人なりの成長〜老化に合わせる、という考え方がなぜできない?

 自分は一通りではない。
 家庭の中の自分、社会の中の自分、趣味の中の自分、自分しかしらない自分・・・いろいろあるのが普通。これらをなぜ一通りに決めて、それに捕らわれなければならない?

 良くあろうとする人の足をなぜ引っ張る?
 人がやっていることをうらやましがりながら、それを「恥ずかしい」「馬鹿じゃないの」と否定するのはなぜ?

 







「普通の写真」は行き詰まるか? 10

 自分または自分たち家族の写真。

 写真館で撮る写真といえば、お宮参りから成人式までいろいろあるのですが、これかの写真を「撮らなければならない」「人がやっているから撮る」と思う人は、決して少なくないと思います。
 理由はさまざまでしょうが、このような前提があると、「安い、簡単、速い」が選択基準となることは間違いないでしょう。どこで買っても同じ家電製品なら、「安い、簡単、速い」が選択基準になるのと同じです。
 
 どこで撮ってもさほど変わらないという現実は確かにあるのです。僕たち写真館の側からいえば、いろいろ細かに違う点も、お客さん側から見れば、対した違いには見えない可能性が多いにある。

 逆にいえば、お客さんの側でも同じようなパターンの撮り方を求めていることも実はあって、そこから外れた形式はなかなか受け入れられない、という悪循環もあるのかもしれません。・・・・ということこそが、写真館の勝手な思い込みであればよいのですが。

 撮り方によって見え方が変わることは、多くの人になかなか理解できないことの一つかもしれません。理解できても受けいられない(面倒だし)・・・。商品写真を撮るネットショップの人でも、ある程度勉強しないと理解できない以上に、自分自身が演じながら、自分自身を客観的に見つめるというハードルがある写真には、なおさら困難がつきまとうはずです。

 僕としては、こういう写真のイメージの違いを多くの人が理解でき、体験でき、活用できるようになれば、一人一人の「イメージ」、家族の「イメージ」、子供の「イメージ」もずいぶん変わるのだろうな、という期待があります。

 ああ、逆かもしれませんね。
 個人や家族や子供などに対して、画一的なイメージがあるからこそ、今のような画一的な写真が求められる・・・。

 鶏と卵、どっちが先? みたいな話になってしまいました。


 







「普通の写真」は行き詰まるか? 9

 もともと写真のシステムは、より多くの人に広がるような性質があるようです。
 写真の歴史をひもとけば、それは一目瞭然です。
 手作りのカメラ、感光材料から始まり、工業製品化。
 乾板から湿板、フィルム・・・。
 大型カメラから中型〜小型カメラへ。

 デジタル化は、こうした変化とは別の大きな変化となるでしょうが、これは今後の宿題。

 こうした性質があるから、僕のような写真とは関わりのない生まれと教育を受けた人間にも、その道は開けていたわけです。大きな意味で、この傾向自体に変わりはないはずです。

 しかし今にして、フィルム時代を見返すと・・・。
 フィルム時代では、フィルムや印画紙の入手にも、地方や業種による差があったことや、現像所や担当者の技術による差も大きく作用したこと。などなどから、結果的に情報は全て中央に集まるような傾向が強くあったはずです。(説明不足ですが・・・。デジタル化は、こうした傾向とは無縁の土壌を提供するでしょう。)

 デジタル化によって、より多くの人が、写真を撮れるようになった。量による質の変化という以上に、従来の写真趣味ではない人々の大規模な新規参入が起こる・・・。写真の歴史は常にそのようなものであったと思うのです。

 それから、ちょっと話はズレますが、人って「飽きる」のです。流行が流行であるように、かもしれません。もう一ついえば「死ぬ」ことも。こうして、表舞台に登る人は常に変わる。

 こういう具合に考えると、写真館の写真はあまりに変わらなすぎたのかもしれないし(変わらないことを目指していたフシが大きいけれど)、印刷メディアの写真も大きくは変わっていないのかもな、なんて思ったり・・・。
 







「普通の写真」は行き詰まるか? 8

 自分や自分たちのために撮る写真といえば、決してアートだけでなく、プリクラなんてのもありましたね。
 
 5年ほど前だかに相当進化したプリクラを片目で見て通りすぎたことがありましたが、今はどうなのでしょう。
 自分たちを撮る楽しさは、ケータイでもできるようになりましたが、そちらにお株を奪われたのでしょうか。
 撮って、その場で確認して、基本的にはそれで終わり。刹那的で、後腐れがなくて、というのは、従来の写真にはありえないテイストではないかと思います。
 かつての写真は、当事者にはなれない疎外された立ち位置にあって、暗室で写真を作り、誰にも知られないでも後々に残す、というある種のクラサがあったように思います。

 プリクラやケータイ、広義にデジタル化が、写真をアカルクしたのは確かなことでしょう。

 プリクラはどこに行った? プリクラ世代のその後は? ケータイカメラは何を変えた? ケータイの次は? 

 話はそれますが、デジタルカメラはムービー化や、3D化に一つの活路を見いだそうとしていますが、これらはいったいどのような進み方をするのでしょう。
 これらによって僕たち(カメラマンとしても、一般人としても)は何が変わって行くのでしょう。 


 

 







「普通の写真」は行き詰まるか? 7

 例えば今、自分自身の写真を撮る(撮られる)として、それは何の役に立つか?

 大きく二つの方向があります。
 一つは今、社会的に。証明写真、プロフィール写真、インタビュー写真、お見合い用もそうですね。今、他の人に見せるために撮る。そのことで、自分を社会的に位置づけるのに役立ちます。ここでは、だいたい必要とされる写真、理想とされる写真のイメージが想定できます。
 面白いのは、イメージが想定できるといっても、ある程度(かなりの)バリエーションがあること。そして、期待していた通りの結果に、必ずしもならないこと。逆にいえば、期待していた以上の結果になるとしても、それが写真だけのせいなのかは、多分わからないのでしょう。
 これはほとんどビジネスと一緒みたい。


 もう一つは、今というよも、将来に役立てるための写真もあります。写真館で撮影する記念写真はこちらに入ります。もちろん、今が大事であることに違いはないのですが、人に見せることを一次的に予定していないのが大きな違いでしょうか。自分のため、家族のため、子供のため・・・つまり自分たちの将来を期待する、その起点としての今を記録することが、これらの動機といっていいでしょう。
 「他人に見せることを目的としないこと」そして「今ではなく将来にかける写真」という2点が、写真館の写真が下手をすれば時代後れ的に見える遠因にもなるのかもしれません。言い方を変えれれば、「それはそういうもの」ということができてしまうのです。写真館の記念写真が「そういうもの」らしくなっているのは、写真館の事情もさることながら、これらの写真の目的による要請も大きいのかもしれません。

 僕としては、というよりも多分、多くの写真館の方々が、ここからの飛躍を夢見ているはずですが、このような事情でなかなか身動きがとりにくいことも事実ではないかと思ったりします。

 何かのきっかけで雪崩を打つように変わる、ことがある、と信じてはいますが。 


・・・もう一つ。自分自身(自分たち自身)を確認するための方法のため、というのもありますかね。これは、アートに入れた方がいいのでしょう。







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